“Net” After Talk #1

 2019年6月4日から、15日まで、神保町のThe Whiteにて個展を開催しました。タイトルは"Net" 新作3点を含む、7点の写真による展示です。
 展開図という言葉を、前回の日記で以下のような説明をしました。

Netというのは、展開図という意味です。数学で出てくるアレです。立体を平面上で把握することが想像の域を超えないため、切り開くことで一様な把握を手助けしたりします。また、建築で出てくるアレでもあります。実際に見に行けなかったり、未完成の状態だと、どこに何が配置されるか把握することが難しいので、面で切り開いて並べ、平面上で分かるようにするためのものです。
http://kaitamaki.com/2019/05/27/solo-exhibition-net/

 この文章を前提に、以下、解説に移ります。

Net [1-11 Nihonbashi Chuo-ku] #3, (2019)
Net [1-11 Nihonbashi Chuo-ku] #1, (2019)
Net [1-11 Nihonbashi Chuo-ku] #2, (2019)
 この3枚の写真が、"Net"(展開図)とタイトルをつけた新作です。過去作で選択した被写体が複合された、同じ地点を撮影した複数枚の写真を、Netと呼ぶことにしました。撮影は"null"という作品の撮影地で行い、過去作の被写体が3箇所以上含まれていることをルールとして設定しています。
 それでは、同じ場所で撮られた全く別の写真について考えていくことにします。ここでは、"null #2"という写真が撮影された場所で撮られた3枚の写真は、同じ場所で撮られており、撮影者は僕(1人であって、複数人ではない)であるという前提で話していきます。
 風景写真を撮るとき、恐らく、人はより良いものを撮ろうと努力するので、複数枚の写真を撮ることがあります。デジタルが普及した現代においてこの考え方は顕著で、1枚の写真を撮り、ディスプレイを見て、もっとこうしたほうがいいなとまたシャッターを切るのです。それらの複数枚の写真から、各々の感性において特定の写真が選択されます。個人が、これが1番美しいと判断をするのです。
 これは風景写真を撮らない方でも、誰もが身に覚えのある経験ではないでしょうか。少し想像してください。友達の写真を撮っていて、目をつぶっていることに気づいたとき、「もう1枚撮らせて」と声をかけることがありませんか。
 そうした選択が日常的に行われています。YouTubeで音楽を探していて、好みでなかったら(撮影した写真に満足しなかったら)すぐに別の曲を聞き始めたり、googleで調べ物をしていて、目的のものでなかったら(友達が目をつぶっていたら)最後まで読まなかったり。うまくいかなかったり、よく分からなかったりした時に、すぐに別の選択肢を探せるのです。現代は、そういった取捨選択の時代だと、僕は考えています。
null #2, 2019
 こうした取捨選択は、展示会場で話をしていた時にもありました。来場者と話をしていて、「この3枚のうちでは、これが一番好きだ」という意見を頂いたのです。僕が提示した同じ場所の写真でも、上で見ていただいた通り、全て別の写真なので、個人の感性によって優劣がつけられます。
 良い-悪い、面白い-面白くないといった(趣味)判断は、多くの場合恣意的で、基本的には個人の経験に依拠します。また、芸術作品だけでなく、多くの作品の読解が受け手に委ねられることは、現代では一般的な考え方の1つになっています。
 ここで問題にしたいことは、そういった作品を読む立場の人々の考え方もまた、ある一定の価値基準のもとに規定されているのではないか、ということです。自分自身の判断と考えていることが、何か別の判断から参照され、感性として認識されているのではないか。先に述べた取捨選択は、そういった環境の下行われるということに、果たして僕らは自覚的なのでしょうか。(この問題も、そもそも僕が提起したものではありません。)
 Net #1 [Cropped], 2019
 "Net"という作品は、参照点を作るために撮影しました。展覧会のために作成した、Photoshopによるクロップ(と呼んでいる)が上の写真になります。"Net #1 [Cropped], 2019"の四角形で囲われた部分が、僕が今まで被写体として選択した部分です。これらの部分を基準に、この作品は撮影されています。つまり、写真を撮るときの基準が、過去の自分に規定されています。
 僕はいつも写真をある程度まとめてから、これは一体なんなんだろうと、撮影された写真を見ながら内容を考えていく方法で作品を作っていました。だからある程度「なんだか気になる」といったような感性で被写体を選択していました。それを全て取っ払って、「これはこの場所でないといけない」といったような論理に従って撮影をしました。そうすると、選択肢が限りなく少なくなります。無限にあった選択肢が有限になり、数学の展開図のように、ある程度撮影できる枚数が決まってきます。"null #2, 2015"に写る矩形は、正方形の面を持たない直方体なので、全部で54枚の写真になる、といったように。
 これで少しは、誰かの思想信条に左右されず、偏見も持たないような写真になるのではないかと思ったのです。ですが、お分かりの通り、これでは不完全です。なぜなら、そもそも基準となる被写体が、過去の自分が恣意的に撮影した被写体なのですから。
 では何をやろうとしているのか。
 簡潔に言うと、変化していく様を作ろうとしています。その変化は、物語のような変化ではなく、断片的な連続性のもと、オリジナルが変化していくようなものです。土着的な、個性による変化です。オリジナルが忘れられ、ある特定の点で個人の意見として規定されるまでの連続性による変化です。
 ちょっと長くなりすぎたので、続きはまた別の機会に。この文章は未完なので、少しずつ改変します。