“UNTITLED [DEDICATED TO TOMOKO ISODA]” Digression #1

 住宅街の話ですが、街並みを見ることはありますか。風景、とりわけその外見的特徴が意図的に制作されている場合に限り景観と呼ばれたりします。今作に関して言えば、景観ではなく風景を撮影しています。
 僕が2016年から2019年前半にかけて制作していた作品は、景観を景観たらしめる要素を切断し、関連付けする行為によって、その(不特定多数のディベロッパーによる)無意識的作為の可視化とでも言いますか、街の構造の可視化に努めていました。
 対し今作は、形象ではなく、個々人の視線の相対化にその目論見があります。日本写真史において1980年代から隆盛した都市計画論に基づく景観の再獲得を目指す意識的試みが、1990年代後半から、明確な差異を伴って風景への共依存関係へ移行します。精神的苦痛を伴うであろうこの試みは、清野賀子の自殺という形で終わりを迎えます。
 誤解を恐れずに言えば、この日本的な過程は、明確な遺産を残しつつ現代に誤読を伴って継承されています。特にその一般への流布は、無意識そのものの日常化という悪意を伴っており、表層的な部分で視覚化されていると感じざるを得ません。
 結局、磯田さんが現在ご健在でおられるのか、未だ確認できておりません。当初より、その確認が出来ると思ってはいなかったのですが、こうもあっさり分からないままであることが、今作にとっては必要なことであったのかもしれません。
 磯田智子が『無題』を撮影してから丁度20年経ちました。その期間に集中的にこの作品の撮影ができたことは、非常に喜ばしいことです。また、来年は日本の街並みが変わりゆく瞬間でもあります。そんな時分に、まだ手の加えられていない都市の外れを放蕩することに尽くした自らの怠惰を恥じつつ、磯田智子への敬意を持って、今年を締めくくろうかと思います。
 お世話になった皆々様へ感謝申し上げ、本年締めのご挨拶と致します。また、来年も意識を保ち続け、撮影に邁進して参りますので、引き続きご寵愛を賜りますようお願い申し上げます。