“UNTITLED [DEDICATED TO TOMOKO ISODA]” Digression #2

 オリジナリティの否定といった言葉を、展覧会開催中ほとんど聞かなかった。想定では、誰もが理解できる文脈として重大な要素になる予定だったのが。正直言って、俺が意識していた別の文脈(磯田作品の新進性)について喋りすぎたという感覚を覚えてはいるものの、仕方のなかったことであるから、話すといった行為に耽ったことに後悔はない。しかしあまりにも、作家性の不在についてリアクションが得られなかった。”作家性”など、あまり気にされないということなのか。
 磯田智子の名前を、ドキュメンタリーであることを示唆するためでなく、”写真から写真を撮る”という内から外へ出向くきっかけとして使った。それは俺の実際の動機であり、写真を見ることで何処かへ行く契機を得るといった、誰しもが一度は抱く至極当然のベクトルである。その点でこの作品は、自己表現や制作といったことから乖離している。
 タイトルは、あまり意識されない部分なのだろうか。タイトル以外、特段気に触る構造を仕込んでいない今回の展示だった。真似る行為を堂々と宣言する上で、俺が話さなくても誰もが気付ける点として、タイトルを中心に置いていたつもりでいた。
 写真はそもそも、社会や歴史、差別や戦争、または土地といった様々な要素を内包しつつ成熟してきた。現在国立新美術館で開催されている<DOMANI・明日>展にて展示されている藤岡亜弥、米田知子、石内都、畠山直哉らの作品はそうした作品構造を捉える好例である。俺は今作を通じ、そうした結びつきを無視して、”完成された写真作品と写真の結びつき”を提案した。それはモダニズム的写真の利用とは明らかに性質が違うため、オリジナリティや作家性といった単語と、会場で出会うことが多くなるだろうと想定していた。結果そうはならなかったのだが、天野太郎氏から、その言葉を展示会場で拝聴した。それを今思い出した。