“UNTITLED [DEDICATED TO TOMOKO ISODA]” Digression #3

 オマージュではないです。制作の動機は真似をすることですから。真似をする、という作品であって、磯田智子の作品をもう一度繰り返すことが目的ではありません。  磯田智子の作品を選んだ理由は、物語が見当たらないからです。対象への意識が明確であることも挙げられます。前者は鑑賞者に想像力を働かせないために、後者は真似をするために作品に特徴が無ければならなかったためです。  今回意識していたことをもう一点書いておきます。現在、調べても分からないことは、なかったことにされてしまう可能性があります。であれば、調べたら情報が出てくるようすればいい。磯田智子の名前を検索すると、僕のホームページや、展覧会の告知ページがヒットするようになった。今作の展覧会の結果として、それは一つの収穫でした。 ...

“UNTITLED [DEDICATED TO TOMOKO ISODA]” Digression #2

オリジナリティの否定といった言葉を、展覧会開催中ほとんど聞かなかった。想定では、誰もが理解できる文脈として重大な要素になる予定だったのが。正直言って、俺が意識していた別の文脈(磯田作品の新進性)について喋りすぎたという感覚を覚えてはいるものの、仕方のなかったことであるから、話すといった行為に耽ったことに後悔はない。しかしあまりにも、作家性の不在についてリアクションが得られなかった。”作家性”など、あまり気にされないということなのか。  磯田智子の名前を、ドキュメンタリーであることを示唆するためでなく、”写真から写真を撮る”という内から外へ出向くきっかけとして使った。それは俺の実際の動機であり、写真を見ることで何処かへ行く契機を得るといった、誰しもが一度は抱く至極当然のベクトルである。その点でこの作品は、自己表現や制作といったことから乖離している。  タイトルは、あまり意識されない部分なのだろうか。タイトル以外、特段気に触る構造を仕込んでいない今回の展示だった。真似る行為を堂々と宣言する上で、俺が話さなくても誰もが気付ける点として、タイトルを中心に置いていたつもりでいた。  写真はそもそも、社会や歴史、差別や戦争、または土地といった様々な要素を内包しつつ成熟してきた。現在国立新美術館で開催されている<DOMANI・明日>展にて展示されている藤岡亜弥、米田知子、石内都、畠山直哉らの作品はそうした作品構造を捉える好例である。俺は今作を通じ、そうした結びつきを無視して、”完成された写真作品と写真の結びつき”を提案した。それはモダニズム的写真の利用とは明らかに性質が違うため、オリジナリティや作家性といった単語と、会場で出会うことが多くなるだろうと想定していた。結果そうはならなかったのだが、天野太郎氏から、その言葉を展示会場で拝聴した。それを今思い出した。 ...

“UNTITLED [DEDICATED TO TOMOKO ISODA]” Digression #1

 住宅街の話ですが、街並みを見ることはありますか。風景、とりわけその外見的特徴が意図的に制作されている場合に限り景観と呼ばれたりします。今作に関して言えば、景観ではなく風景を撮影しています。  僕が2016年から2019年前半にかけて制作していた作品は、景観を景観たらしめる要素を切断し、関連付けする行為によって、その(不特定多数のディベロッパーによる)無意識的作為の可視化とでも言いますか、街の構造の可視化に努めていました。  対し今作は、形象ではなく、個々人の視線の相対化にその目論見があります。日本写真史において1980年代から隆盛した都市計画論に基づく景観の再獲得を目指す意識的試みが、1990年代後半から、明確な差異を伴って風景への共依存関係へ移行します。精神的苦痛を伴うであろうこの試みは、清野賀子の自殺という形で終わりを迎えます。  誤解を恐れずに言えば、この日本的な過程は、明確な遺産を残しつつ現代に誤読を伴って継承されています。特にその一般への流布は、無意識そのものの日常化という悪意を伴っており、表層的な部分で視覚化されていると感じざるを得ません。  結局、磯田さんが現在ご健在でおられるのか、未だ確認できておりません。当初より、その確認が出来ると思ってはいなかったのですが、こうもあっさり分からないままであることが、今作にとっては必要なことであったのかもしれません。  磯田智子が『無題』を撮影してから丁度20年経ちました。その期間に集中的にこの作品の撮影ができたことは、非常に喜ばしいことです。また、来年は日本の街並みが変わりゆく瞬間でもあります。そんな時分に、まだ手の加えられていない都市の外れを放蕩することに尽くした自らの怠惰を恥じつつ、磯田智子への敬意を持って、今年を締めくくろうかと思います。  お世話になった皆々様へ感謝申し上げ、本年締めのご挨拶と致します。また、来年も意識を保ち続け、撮影に邁進して参りますので、引き続きご寵愛を賜りますようお願い申し上げます。 ...

“Net” After Talk #1

 2019年6月4日から、15日まで、神保町のThe Whiteにて個展を開催しました。タイトルは"Net" 新作3点を含む、7点の写真による展示です。 展開図という言葉を、前回の日記で以下のような説明をしました。 Netというのは、展開図という意味です。数学で出てくるアレです。立体を平面上で把握することが想像の域を超えないため、切り開くことで一様な把握を手助けしたりします。また、建築で出てくるアレでもあります。実際に見に行けなかったり、未完成の状態だと、どこに何が配置されるか把握することが難しいので、面で切り開いて並べ、平面上で分かるようにするためのものです。 http://kaitamaki.com/2019/05/27/solo-exhibition-net/ この文章を前提に、以下、解説に移ります。 Net [1-11 Nihonbashi Chuo-ku] #3, (2019) Net [1-11 Nihonbashi Chuo-ku] #1, (2019) Net [1-11 Nihonbashi Chuo-ku] #2, (2019)  この3枚の写真が、"Net"(展開図)とタイトルをつけた新作です。過去作で選択した被写体が複合された、同じ地点を撮影した複数枚の写真を、Netと呼ぶことにしました。撮影は"null"という作品の撮影地で行い、過去作の被写体が3箇所以上含まれていることをルールとして設定しています。  それでは、同じ場所で撮られた全く別の写真について考えていくことにします。ここでは、"null #2"という写真が撮影された場所で撮られた3枚の写真は、同じ場所で撮られており、撮影者は僕(1人であって、複数人ではない)であるという前提で話していきます。 風景写真を撮るとき、恐らく、人はより良いものを撮ろうと努力するので、複数枚の写真を撮ることがあります。デジタルが普及した現代においてこの考え方は顕著で、1枚の写真を撮り、ディスプレイを見て、もっとこうしたほうがいいなとまたシャッターを切るのです。それらの複数枚の写真から、各々の感性において特定の写真が選択されます。個人が、これが1番美しいと判断をするのです。 これは風景写真を撮らない方でも、誰もが身に覚えのある経験ではないでしょうか。少し想像してください。友達の写真を撮っていて、目をつぶっていることに気づいたとき、「もう1枚撮らせて」と声をかけることがありませんか。 そうした選択が日常的に行われています。YouTubeで音楽を探していて、好みでなかったら(撮影した写真に満足しなかったら)すぐに別の曲を聞き始めたり、googleで調べ物をしていて、目的のものでなかったら(友達が目をつぶっていたら)最後まで読まなかったり。うまくいかなかったり、よく分からなかったりした時に、すぐに別の選択肢を探せるのです。現代は、そういった取捨選択の時代だと、僕は考えています。 null #2, 2016  こうした取捨選択は、展示会場で話をしていた時にもありました。来場者と話をしていて、「この3枚のうちでは、これが一番好きだ」という意見を頂いたのです。僕が提示した同じ場所の写真でも、上で見ていただいた通り、全て別の写真なので、個人の感性によって優劣がつけられます。 良い-悪い、面白い-面白くないといった(趣味)判断は、多くの場合恣意的で、基本的には個人の経験に依拠します。また、芸術作品だけでなく、多くの作品の読解が受け手に委ねられることは、現代では一般的な考え方の1つになっています。 ここで問題にしたいことは、そういった作品を読む立場の人々の考え方もまた、ある一定の価値基準のもとに規定されているのではないか、ということです。自分自身の判断と考えていることが、何か別の判断から参照され、感性として認識されているのではないか。先に述べた取捨選択は、そういった環境の下行われるということに、果たして僕らは自覚的なのでしょうか。(この問題も、そもそも僕が提起したものではありません。)  Net #1 [Cropped], 2019  "Net"という作品は、参照点を作るために撮影しました。展覧会のために作成した、Photoshopによるクロップ(と呼んでいる)が上の写真になります。"Net #1 [Cropped], 2019"の四角形で囲われた部分が、僕が今まで被写体として選択した部分です。これらの部分を基準に、この作品は撮影されています。つまり、写真を撮るときの基準が、過去の自分に規定されています。 僕はいつも写真をある程度まとめてから、これは一体なんなんだろうと、撮影された写真を見ながら内容を考えていく方法で作品を作っていました。だからある程度「なんだか気になる」といったような感性で被写体を選択していました。それを全て取っ払って、「これはこの場所でないといけない」といったような論理に従って撮影をしました。そうすると、選択肢が限りなく少なくなります。無限にあった選択肢が有限になり、数学の展開図のように、ある程度撮影できる枚数が決まってきます。"null #2, 2015"に写る矩形は、正方形の面を持たない直方体なので、全部で54枚の写真になる、といったように。 これで少しは、誰かの思想信条に左右されず、偏見も持たないような写真になるのではないかと思ったのです。ですが、お分かりの通り、これでは不完全です。なぜなら、そもそも基準となる被写体が、過去の自分が恣意的に撮影した被写体なのですから。  では何をやろうとしているのか。 簡潔に言うと、変化していく様を作ろうとしています。その変化は、物語のような変化ではなく、断片的な連続性のもと、オリジナルが変化していくようなものです。土着的な、個性による変化です。オリジナルが忘れられ、ある特定の点で個人の意見として規定されるまでの連続性による変化です。  ちょっと長くなりすぎたので、続きはまた別の機会に。この文章は未完なので、少しずつ改変します。 ...